赤松常子について

赤松常子、その人とあしあと

社会にささげつくした生涯-赤松常子の歩んだ道-

赤松常子さんは1897年(明治30年)8月、山口県徳山市の格式ある寺―徳応寺に生まれました。小さい時から父である照憧氏が行っていた、刑余者や孤児に対する救済活動のよき助手として活動しながら、学業をつづけ、1913年(大正2年)には京都女子専門学校に入学されました。在学中に、キリスト教社会運動家として生活協同組合運動に取り組んだ神戸の賀川豊彦氏の社会事業にも協力、ついに学業を中断して社会運動にとびこまれました。この間働く人の苦しみを身をもって体験するため、タバコ工場や製紙工場で、労働に従事しました。1923年(大正12年)には本格的に労働運動にとりくむため上京、その年の関東大震災には賀川豊彦氏の救済事業に協力しました。1925年(大正14年)、総同盟に招かれて婦人部に席をおき、いよいよ労働運動に献身することになりました。以来、1927年(昭和2年)から1940年(昭和15年)にかけて、数少ない婦人労働運動指導者として、野田醤油、岡谷山一林組、東京モスリンなどの大争議に参加、婦人労働者の母として姉として暴力や官憲の弾圧に耐えて、労働者解放の闘いを続けました。さらに婦人参政権運動にも参与され、政治運動の分野をひろげました。

1940年(昭和15年)総同盟は“聖戦”の名のもとに手ひどい弾圧をうけて解散となり、赤松さんは会社の教育係などを務めながら来るべき日を待ちました。

1945年(昭和20年)、敗戦とともに先生も本来の仕事に戻られ、総同盟再建、全繊同盟(現UAゼンセン)結成に努力され、1947年(昭和22年)には第1回の参議院選挙に全国区から立候補されて当選、芦田内閣の厚生政務次官をつとめられました。このころ労働基準法の制定など特に婦人労働者保護の面で活躍されました。

1948年(昭和23年)全繊同盟婦人部長、1950年(昭和25年)参議院労働委員長、1953年(昭和28年)第2回当選、1959年(昭和34年)第3回当選、1960年(昭和35年)民社党の結成に参加、日本婦人教室の会(日婦)会長などを歴任。また世界連邦建設同盟(現世界連邦運動協会)には1948年(昭和23年)8月の創立以来参画し、副会長をつとめられ、国会内につくられた「世界連邦日本国会委員会」でも積極的な活動をされました。

1964年(昭和39年)遊説中に仙台で倒れられ、1965年(昭和40年)伊豆韮山の温泉で急逝されました。行年68歳。

赤松賞とは・・・

~雑草のようにたくましく、
雑草のようにつつましく~
「草の根」の活動に黙々と献身している女性に贈られる賞

赤松賞は、元全繊同盟(当時)副会長で婦人部長も務められた故赤松常子参議院議員(1965年逝去)の遺徳と功績を記念し、昭和46年に制定されました。赤松先生の遺志をつぎ、女性の地位向上や労働運動、平和運動、地域社会の福祉等に貢献された女性の表彰を行うことを目的にしています。

表彰者は赤松常子顕彰会3団体(UAゼンセン、世界連邦、民社協会)からの推薦により、理事会で決定しますが、必ずしも3団体に所属している人に限定しません。広く“社会の根”として地道に献身している女性を発掘していこうというもので、「10年以上、これらの活動に携わっている人」としています。ただし、国会議員、地方議会の現職議員は除きます。表彰者の決定、発表は毎年4月10日の「女性の日」(女性がはじめて選挙権を行使した日)を目処とし、受賞者には表彰状(または楯)と記念品代を贈ります。

赤松常子先生